希死念慮

夢も希望も無い今、家族に突っかかられたりとか、面倒な事に遭遇するとすぐに死にたくなる。きっと彼らも私の現状を憂いて干渉してくれているのだろうけど、彼らのやる事はいつも的外れで私の心を理解していない。このような他人をあてにせざるを得ない状況を招いた自分が悪いのだけれど。

死ぬ方法は時々、冗談交じりに考察している。どの死に方が楽か、なんてのは死んだ人間にしか分からないが、死人に口無し。死ぬまでそれが辛いのか楽なのかなんて分からないのだから好きな死に方を選ぶのが良さそうだ。

考察した方法その一。近所の踏切に、急ブレーキをかけられないギリギリのタイミングで立ち入り肉塊になる。駅ではなく踏切で死ぬ事を選ぶのは、踏切で人が死ぬ光景が叙情的に思えるから。踏切での自殺はロマンティックだ。
以前Tumblrにこんな文章が流れてきた。真偽は分からないが、もしこの文章のように不慮の事故を装えば遺族への負担が多少なり軽くなるとしたら、自転車を向かい側に停めて、携帯を線路に落とし"通過途中で携帯を線路に落とし、拾いに戻ったバカ"を演じてやれば損害賠償は回避できるかもしれない。自分が死んだ後の世界なんてどうでもいいし、遺族へ負担がかかろうがどうだっていいけれど。

方法その二。自宅の通気性が悪く、狭い部屋で内側から抜かりなく目張りして、睡眠導入剤を飲み、効いてきた辺りで練炭を炊く。シンプルで、時間帯を選べば誰かに止められる可能性も低い。単純に自殺するならばこの方法が最も勝手が良いように思える。
しかし実用性を重視しすぎてロマンに欠ける。本来ならば飛び降り自殺なんかロマンティックで良いと思うのだが、近所に確実に死ねる高さの建物が無い。これだから田舎は。

他の方法も考察したが、首吊りは上手くロープを結ぶ自信が無いので却下。凍死のシーズンも過ぎた。やるとしたら上記の二つから選択するのだろうなと思う。
今日の妄想は終了。こんな妄想をしなくても済むよう、エンドジョイの現実化を待ち侘びている。